火消しだけじゃない、刺青を入れた江戸・明治の働く人々

2026.06.25

江戸から明治はじめの日本で、刺青を入れていたのは火消しだけではありません。馬の世話係や人足、飛脚など、裸に近い装いで働く人々の背を、彫物が覆っていました。彫物は仕事着の代わりであり、職業の印であり、度胸の証でもありました。ここでは、記録や写真をもとに、刺青を入れた働く人々の歴史をたどります。

はじめに

古い江戸の、夏の通りを思い浮かべてください。一人の馬の世話係が、馬のかたわらを小走りに進みます。暑さのなか、身にまとっているのは褌だけです。その背と腕は、端から端まで色で覆われています。描かれているのは、龍、波、そして散らした花々です。当時の彫物は、こうした働く人々の暮らしにも根づいていました。

日本の刺青の歴史を短く語る多くの本は、浮世絵から火消しへ、そしてやくざへと一気に話を進めます。火消しは確かにこの物語の一部です。しかし、彼らだけではありませんでした。査読を受けた歴史研究では、刺青を入れた働く人々として、人足、駕籠かき、飛脚、火消しを挙げています。さらに当時の写真からは、馬の世話係や船の漕ぎ手も加えることができます[1][3]。これらの職業に共通するのは、仕事のために裸に近い装いになることでした。全身の入墨は衣服のような役割を果たし、外国人には制服のようにも見えました。

この記事では、その日常の歴史として、なぜこれらの職業の男たちが刺青を入れたのか、彼らはどのような人々だったのかをたどります。開港地の西洋の写真家たちが彼らの姿を撮り、土産物として売った経緯や、そして1872年の法律が、裸に近い装いで刺青を入れて働く人々をどのように直接狙ったのかも取り上げます。歴史研究や博物館・図書館の記録をもとに、裏づけのある事柄と、広く伝わっていても確かではない話を分けて紹介します。

なぜ働く人々が彫物を入れたのか

彫物が広まった背景には、仕事中の服装がありました。荷を運び、よじ登り、走り、馬の世話をするといった、都市の過酷な肉体労働は、暑く湿った気候のなか、ほとんど何も身につけずに行われました。褌が仕事着でした。そのため、肌が大きく露わになります。刺青で彩られた肌は一種の覆いとなりました。人足にとっては、仕事中に着られない着物の代わりでもあったのです[2][3]。

図柄には、浮世絵の影響も見られます。1800年代はじめ、浮世絵師の歌川国芳(1797年〜1861年)が、刺青の英雄たちを描いた連作を発表しました。日本で水滸伝として知られる、中国の無法者たちの物語に登場する英雄たちです。これが大変な人気を博し、刺青の流行に火をつけました。下町の界隈では、職人や人足たちが、この勇猛で義に厚い英雄たちを、自らの体に写し取らせたのです[1]。

装飾だけではない、帰属の印

同じような図柄をまとうことには、社会的な意味がありました。荒々しい肉体労働の男たちの世界で、その人の立場を示すことができたのです。また、ある種の頑強さを示すものでもありました。火消しについては、この結びつきがしばしば直接に語られます。一説によれば、彼らは火消し半纏と呼ばれる厚い刺子の半纏を着ており、外側は無地でも内側は凝った装飾が施されていました。火事のあと、彼らは半纏を裏返してその図柄を見せたといいます。彼らの刺青は、その裏地と呼応していたとされます。さらに後の時代の論評には、その彫物が、炎のなかで命を落とした火消しの遺体を見分ける助けになりえた、という見方もあります[4]。

彫物は、気概を示すものとも考えられます。学者のジョン・スカトリンは、マーゴ・デメロの研究をまとめながら、西洋では刺青が、兵士や肉体労働者のあいだで「男性的な気概の象徴」になったと指摘します。この記事では、古い江戸の働く人々の刺青も、これと似た見方で読みます。危険な仕事に就く男たちのあいだでは、彫物が度胸を示すものになりえたからです。水滸伝の英雄の図柄は、無法者の、反体制的な力を帯びていました。流行の背景には、権力に立ち向かう水滸伝の英雄たちへの共感がありました[1]。

裸に近い装いで働いた職業

誰が刺青を入れ、なぜか

職業入れた理由
火消し(鳶)半裸で危険な現場に出た。刺青は度胸の証だった
車夫(人力車)東京の夏の暑さで、裸に近い姿で働く人もいた
駕籠かき歴史研究で、刺青を入れた職業の一つに挙がる
飛脚軽装で長い距離を走った
別当・人足裸で働き、刺青が第二の衣のようだった
出典: Skutlin 2019、MIT Visualizing Cultures。

当時どのような職業の人々が刺青を入れていたかについては、スカトリンの研究に明確な記述があります。彼は、この時代の刺青が「いまだ下層の労働者階級と結びついていた」と書き、それらを率直に列挙します。「人足、駕籠かき、飛脚、火消し」です[1]。当時の写真や記録からは、ほかの職業にも刺青が広まっていたことがわかります。

火消しと鳶

江戸の火消しは、その度胸と筋力ゆえに尊ばれた、庶民の英雄でした。彼らは、全身に刺青を入れた都市の住人として、もっともよく知られた人々でした[4]。多くは鳶を兼ねていました。鳶とは、足場をよじ登り、火事のときには燃え広がらないように建物を引き倒した、とび職の人足です。火消しと鳶は重なり合い、彫物と気概をめぐる評判もまた重なっていました[3][4]。

馬の世話係、すなわち別当

馬の世話係である別当の姿は、外国の写真家たちが好んで撮影したため、写真で見ることができます。ある初期の西洋のアルバムの説明文は、次のように主張しています。刺青の習慣は、海の生き物を脅すために体に印をつけた漁師から別当へと伝わり、別当はそれを「ただ虚栄心から」取り入れた、というのです[3]。この起源の話は俗説です。しかし、彫物を多く入れた別当を写した、現存するいくつかのスタジオ肖像写真は、当時の習慣を伝える記録です[5][6]。

飛脚、駕籠かき、荷を運ぶ人足

足の速い飛脚は、裸に近い装いで長い継ぎ走りをこなし、刺青を入れていた職業の一つに挙げられています[1]。駕籠や乗物で人を運んだ駕籠かきも、重い荷車を引き、波止場や建設現場で働いた人足も同様です[1]。フェリーチェ・ベアトのある写真の説明文は、船の漕ぎ手を「がっしりとして引き締まった連中」と評しています。その体にはしばしば「よく描かれ、美しく彩色された」刺青が施されていた、とも記しています[3]。

車夫

人力車が登場したのは、明治のはじめ、1869年から1870年ごろのことにすぎません。そこから急速に広まりました。後世の歴史的なまとめによれば、東京には1872年までにすでにおよそ5万6千台があったといいます[7]。車夫は、はじめのうち、夏の暑さのなかを褌一枚ほどの装いで走りました。明治の禁止令の歴史をたどると、人足とならんで彼らの名が挙がります。目に見えて刺青を入れていた働く人々で、政府はその露わな、刺青の入った体を体面の悪いものと見なしたのです[1][7]。

西洋は彼らをどう見たか、横浜写真

幕末から明治初期の横浜写真。背中に大きな刺青を入れた別当(馬の世話係)たちのスタジオ写真。
幕末から明治初期の横浜写真。背中に大きな刺青を入れた別当(馬の世話係)たちのスタジオ写真。 画像クレジット: Felice Beato / Library of Congress · パブリックドメイン · WebPへリサイズ・変換。

これらの刺青を入れた働く人々の姿を、私たちが今なお目にできるのは、開港地の横浜で育った独特の産業のおかげが大きいのです。外国人向けの土産物写真、いわゆる横浜写真です。

その先駆者がフェリーチェ・ベアトでした。1833年ごろに生まれ、1909年に亡くなった、イギリスに帰化した写真家です。彼は1863年に来日し、1859年に開港地として開かれた横浜に居を構え、そこで21年間にわたって仕事をしました[2]。すでにクリミアや中国の戦争写真で名高かったベアトは、横浜のスタジオで観光客相手の商売を始め、手で色をつけた写真(手彩色のアルビュメン・プリント)を作りました。風景、「人物の型」、そして日々の暮らしの場面です。彼はそれらを一冊のアルバムにまとめました。それが『日本の写真集、歴史的・記述的注解付き』で、1869年ごろに出版され、英語の説明文はジェームズ・W・マレーらが書きました[2]。

スナップ写真ではなく、スタジオの「型」

写真を見る際には、その撮影目的も考慮する必要があります。ベアトのスタジオ肖像写真は、スナップ写真というより、演出された「型」として読むのがふさわしいものです。西洋の買い手のために、商人、絵師、馬の世話係といった日本の人物像を集めて並べたものなのです。MITの学者アローナ・C・ウィルソンは、その説明文が「当時の外国人の、日本についての知識の初歩的な水準を露わにする、多くの事実誤認を含んでいる」と指摘します[2]。ベアトの写真は別当の刺青の習慣を記録していますが、外国人の買い手の関心に合わせて演出された商品でもありました。

ベアトだけではありませんでした。1877年に商売をたたんだとき、彼はスタジオと原板をライムント・フォン・スティルフリート男爵に売却しました。男爵の会社はそうした写真を刷り、売り続けました。刺青の別当を写した肖像写真の商いは、別の名のもとで明治の時代まで続いたのです[2]。その結果、自分たちではほとんど文字の記録を残さなかった働く人々の歴史を伝える、珍しいほど豊かな写真の記録が残りました。

港の船乗りたち

外国人が刺青の別当を撮影した開港地は、外国から来た人たち自身が刺青を入れる場所でもありました。日本の彫師は海外で高い評価を得ており、港を通る外国の兵士や船乗りも、彼らを訪ねる人々のなかにいました。外国人居留地の彫師たちが忙しかったのは、そのためでもありました[8]。

裸に近い装いの職業を狙った1872年の禁止令

やがて国家は、こうした彫物についての考えを改めます。1868年に政権を握った明治政府は、軍艦で国を開かせた西洋諸国に対して、近代的で「文明的」に見せようとしました。政府が体面を損なうと考えたのは、働く人々の目立つ刺青でした。

スカトリンがその理屈を説明しています。政府は、刺青をそのままにしておけば「野蛮」に見えると判断しました。「東京の夏のうだるような暑さと湿気のなか、その多くが裸に近い装いで働いた車夫や人足が、目に見える鮮やかな刺青で彩られていることが多かった」からです。そこで政府は1872年、刺青を彫る行為と、刺青を公衆の前にさらすことの双方を禁じる法律を定めました。彫師は懲役とし、その道具は没収することにしました[1]。

露わな肌についての法

その鍵となる法律は、刺青だけを狙ったものではありませんでした。それは違式詿違条例という軽犯罪の条例でした。スカトリンは、人類学者の河野さつきの研究をもとに、この条例が混浴を禁じ、庶民、とりわけ女性が衣服を一部しか身につけずに人前に出ることも禁じたと指摘します。ふつうの人の体が、人前で何を見せてよいかという新しい規則の対象になったのです[1]。

だからこそ、この禁止令は裸に近い装いの職業に、これほど重くのしかかりました。通りにいる刺青の人足は、いまやスカトリンの言う「二重の違反」を犯すことになりました。一つは衣服をまとっていないこと、もう一つは新しい規則が野蛮と見なした印を身につけていることです[1]。彫物がこれらの男たちの役に立っていたのは、肌をさらして働いていたからです。その習慣こそ、この法律が覆い隠そうとしたものでした。

この禁止令は、習慣を消し去りはしませんでした。禁止令によって入墨は人目から遠ざけられ、彫師たちは隠れて仕事をするようになり、その技芸の世間での評判は、いかがわしいものへと落ちていきました。刺青への法的な禁止が解かれたのは、第二次世界大戦の直後の数年になってからです。スカトリンは1947年とし、別の記述は占領下の1948年としています[1][8]。

外国人への施術が認められた例外

大事な例外がありました。取り締まりは日本の臣民に降りかかりましたが、外国人にはときに例外が設けられました。一部の開港地では、日本の彫師が来訪者に彫り続けることを許されました。そのため、この技芸は国内では人目を避けて隠れていく一方で、外国人の肌に彫る仕事としては、合法的に対価を得ながら生き続けたのです[9]。

日本の彫師は海外で高い評価を得ており、来訪者は彼らを探して訪ねてきました[8]。もっともよく記録に残る客は、王族でした。ロイヤル・コレクション・トラストは、この時代に少なくとも三人のイギリス王族が日本で刺青を入れたと記録しています。アルフレッド王子、そして年若いアルバート・ヴィクター王子とジョージ王子です。エディンバラ公アルフレッド王子は、1869年に東京の宿舎で彫師を迎え、右腕にうねる龍を彫らせました[9]。

もっとも有名なのは、後の国王ジョージ5世の例です。1881年、軍艦バッカンテ号に乗り組む十代の海軍士官候補生だった彼は、兄のアルバート・ヴィクター王子とともに、日本の訪問中に刺青を入れました。乗組員の多くも同様です。日記のなかでジョージは、「青と赤の大きな龍が腕じゅうをうねって下りていくのを、三時間ほどで」仕上げられる彫師について書いています[9]。

ただし、施術した彫師の名については記録に違いがあります。一般の記事ではしばしば、王子たちに刺青を入れた人物として、名高い彫師の彫千代の名を挙げます。ロイヤル・コレクション・トラストは、記録に基づき、その彫師は「おそらく、当代随一の彫師であった唐草権太」だとしています[9]。王族の刺青はよく記録されています。しかし、どの彫師が手がけたかは、それほど確かではありません。一人の名前を自信ありげに挙げる説は、慎重に扱うべきです。ほかの外国の王族が、こうした一覧に加えられることもあります。後のロシア皇帝ニコライ2世もその一人で、入墨を入れたと言われています。しかし、こうした話の裏づけは、さらに弱いものです。ですから、ここでは確かな事実としてではなく、報じられている話として紹介するにとどめます[8]。

確かなことと、俗説であること

この歴史の多くは、外国人の目や人々の記憶を通して伝わってきたものです。そのため、記録で確認できることと、伝聞にとどまることを分けて考える必要があります。

まず、よく記録されていることから挙げます。刺青は、江戸と明治はじめのいくつかの下層の働く職業のあいだで、確かに広く認められていました。国芳の水滸伝の浮世絵が刺青の流行を後押ししました。火消しは彫物と密接に結びついていました。1872年の軽犯罪の条例は、刺青を彫ることと、それを公衆の前にさらすことの双方を禁じました。そして、その禁止令は、車夫や人足のような、目に見えて刺青を入れた働く人々に降りかかりました。これらは、専門家のチェックを受けた歴史研究と、そこで引用されている学者たちの研究にもとづいています[1]。

写真の記録から確認できることもあります。開港地で撮られた、刺青の別当や人足の写真は、実在するコレクションに収められています。そして、ベアトのスタジオとその後継者たちは、確かにそれらを観光客に売っていました[2][6]。

最後に、事実というより俗説といえることです。別当が、鮫を恐れる漁師から刺青を受け継いだという、きれいにまとまった起源の話です。これはある当時のアルバムの説明文に現れるもので、外国人が聞かされた物語として読むべきものです[3]。同じく不確かなのが、有名人をめぐる大ざっぱな主張です。たとえば、訪れる王子という王子のすべてに刺青を入れたとされる、ただ一人の名のある彫師の話などです[9]。歴史を紹介する際には、記録のある出来事と、こうした裏づけの弱い逸話を分ける必要があります。

旅先で彫物の歴史に触れる

日本の刺青に関心のある旅人にとって、この古い層の歴史は、多くのガイドブックが飛ばしてしまう部分です。そして、刺青の見方を変えてくれます。19世紀の装飾的な全身の彫物は、ただ犯罪者の印だったわけではありません。一部の働く人々にとっては、目に見える仕事着のような、また仲間であることを示す印のような役割を持ちえました。荷車を引き、走って郵便を運び、足場をよじ登り、馬の世話をした男たちが、それを堂々と身につけていたのです。

この歴史は、刺青という技芸が日本で今も置かれている、ちぐはぐな二つの立場も説明してくれます。刺青と裏社会との結びつきには、江戸時代の入墨刑や、その後の装飾的な刺青への規制など、複数の歴史的な背景があります。1872年の禁止令は、人前で見せていた彫物を隠す動きを強めました。一方で開港地では、外国人への施術が続いた例もあります[1][9]。これを知ると、一部の銭湯やプールが今も独自の規則を掲げている理由も含めて、今の日本の空気がわかりやすくなります。

Evisは、旅と刺青の両方を求めて訪れる人たちを相手に仕事をしています。私たちは、彫物の歴史を知ることも旅の体験の一部だと考えています。考えている図柄が古い波や龍の伝統につながるものなら、その図柄がかつて、働く人の背中でもう一枚の皮膚のように身につけられていたことを知っておくと役に立ちます。図柄の魅力とともに、それを身につけた人々の暮らしや社会の事情も伝えていきたいと考えています。

参照

  1. John Skutlin. Fashioning Tattooed Bodies: An Exploration of Japan's Tattoo Stigma. Asia Pacific Perspectives, Vol. 16, No. 1, Center for Asia Pacific Studies, University of San Francisco, 2019, pp. 4-33. https://jayna.usfca.edu/asia-pacific-perspectives/pdfs/skutlin_app_16_v_1_4.19.19_cc_2018_4-33_.pdf
  2. Alona C. Wilson. Felice Beato's Japan: People. MIT Visualizing Cultures, 2010. https://visualizingcultures.mit.edu/beato_people/fb2_essay.pdf
  3. Alona C. Wilson. Felice Beato's Japan: People (caption discussion of boatmen and laborers). MIT Visualizing Cultures, 2010. https://visualizingcultures.mit.edu/beato_people/fb2_essay.pdf
  4. Kintaro Publishing. The Tattooed Firefighters of Edo. Kintaro Publishing, 2022. https://kintaro-publishing.com/blogs/news/the-tattooed-firefighters-of-edo
  5. Museum of Fine Arts, Boston. Betto or Groom (Felice Beato, c. 1863-1867), catalog entry. Museum of Fine Arts, Boston. https://collections.mfa.org/objects/544297
  6. Felice Beato. Studio portraits of Japanese tattooed "bettoes" (horse grooms), a mother carrying child on her back, and two young sisters. Library of Congress, Prints and Photographs Division, LOT 4339, LCCN 2011649861, between 1863 and 1877. https://www.loc.gov/item/2011649861/
  7. Kjeld Duits. The "Human Horses" of the Rickshaw. OldPhotosJapan.com, 2022. https://www.oldphotosjapan.com/photos/896/history-of-the-japanese-rickshaw-jinrikisha-vintage-photography
  8. Yamamoto Yoshimi. "Irezumi": The Japanese Tattoo Unveiled. Nippon.com, 2017. https://www.nippon.com/en/views/b06701/
  9. Royal Collection Trust. Royal Tattoos (Japan: Courts and Culture). Royal Collection Trust. https://www.rct.uk/collection/exhibitions/japan-courts-and-culture/the-queens-gallery-buckingham-palace/features/royal-tattoos

よくある質問

古い日本で、火消し以外に刺青を入れていた職業は何ですか。

査読を受けた歴史研究では、刺青を入れた働く人々として、人足、駕籠かき、飛脚、火消しをはっきり挙げています[1]。当時の写真や記録は、これに馬の世話係(別当)、船の漕ぎ手、明治期の車夫を加えます。これらは裸に近い装いで行う肉体労働でした。そのため刺青は、一種の覆いとして、また職業の印としての役割を果たしたのです[1][3][7]。

なぜ裸に近い装いの人足が刺青を入れたのですか。

彼らの仕事は、暑さのなか、褌一枚ほどの装いで行われました。そのため、刺青で彩られた肌が、もう一枚の覆いの役割を果たしました。彫物はまた、荒々しい労働者階級の世界における立場を示し、頑強さを示すこともできました。多くの図柄は、歌川国芳の浮世絵で人気になった、水滸伝に登場する刺青の無法者の英雄たちを写したもので、気概と反体制的な力を帯びていました[1][2]。

1872年の明治の刺青禁止令とは何で、誰を狙ったものですか。

1872年、明治政府は刺青を彫ることと、それをさらすことの双方を禁じました。鍵となる法律は違式詿違条例という軽犯罪の条例で、公衆の前で衣服を一部しか身につけないことや混浴も禁じました。刺青の人足は肌をさらして働いたため、衣服をまとっていないことと、野蛮と見なされた印を身につけていることの、二重の違反を犯しました。その狙いは、西洋諸国に文明的に見せることでした。禁止令はおよそ1947年から1948年に解かれました[1]。

古い日本の写真に写る刺青の馬の世話係とは、どのような人々ですか。

彼らは別当、すなわち馬の世話係でした。フェリーチェ・ベアトのような開港地の写真家が、外国人向けに売る土産物のアルバムのために彼らを撮りました。アメリカ議会図書館は、1863年から1877年の間に撮影されたベアトによる刺青の別当のスタジオ肖像写真を所蔵しています[6]。当時の人々と習慣を記録した写真ですが、写真は西洋の買い手のために演出された「型」であり、その説明文には誤りが含まれています[2]。

禁止令のあいだ、外国人は本当に日本で刺青を入れたのですか。

はい。取り締まりは日本の臣民に降りかかり、外国人にはときに例外が設けられました。そのため、一部の開港地では彫師が来訪者に彫り続けました[9]。ロイヤル・コレクション・トラストは、日本で刺青を入れたイギリス王族を記録しています。1869年のアルフレッド王子や、1881年に海軍士官候補生だった後の国王ジョージ5世もその一人で、その日記には「腕じゅうをうねって下りていく」龍が記されています[9]。彫師が誰だったかなど、有名人をめぐる話の一部は不確かです[9]。

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